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学びの森パスカルさん
八幡町の学習塾です。

幼児・小・中・高の学習指導、社会人のための英会話教室の他、
通信制高校の学習支援センターもやっています。

「学び」をテーマに、色々と活動しています。

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メルマガ「教育記事から教育を考える」
「教育記事から教育を考える」というメルマガを購読しています。
このメルマガは合資会社マネジメント・ブレイン・アソシエイツ(MBA)代表の中土井鉄信さんという方が執筆しておられます。

2月13日のテーマは
「綺麗事の教育論では、事態は改善しない!その1」
でした、。

転載の許可を得ましたので、全文載せたいと思います。



「綺麗事の教育論では、事態は改善しない!その1」

今回は私の意見を述べさせていただきます。

◇日本の教育は、この20年来、劣化に劣化を重ねて来ました。その
発端は、1990年に登場する「新学力観」がスタートだと言っても
良いかもしれません。それは、子ども中心主義と言える学力観です。

新学力観は、今までの観点別学習状況(=観点別評価)の重点項目を
今までとは違う順番にし、子どもの主体性を評価していこうという
変更です。「意欲・関心・態度」を重視し、子どもたちの主体性を
育成していこうとする学力観が、新学力観です。


◇平成4年版の「我が国の文教施策」の中で文部省は、次のように
言っています。

「学校教育は,知識の伝達に偏り,画一化,硬直化しているなどの
指摘があるが,これらは,これまでの教育の負の側面に対する端的な
警鐘として受け止め,これらの点を是正していく必要がある。

このような状況を踏まえるとき,これからの学校教育においては,
子どもたちが社会の変化に対応して主体的,創造的に生きていく
ために必要な資質や能力を育成することが求められる。

平成元年に改訂した学習指導要領も,このような考え方に立ち,
社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成を図ることを基本的な
ねらい」として、学習指導要領等を改善したと。

この学習指導要領の改訂によって、教師の学習指導の役割が変更されます。
今までの教師は子どもたちに教科を教え込む指導者であったものが、
新学力観の下では、子どもたちの学習を支援するサポーターの役割に
なったのです。


◇この改革は、あくまでも学習の主役は子どもたちだということです。
その当時、「教育から学びへ」とよく言われたものです。小学校の
教師用に書かれた文部省の解説書には、こう書かれているそうです。
(苅谷剛彦2002年)

・教師は子供たちの立場に立ってこれを支援するという指導観に立つ
ことが肝要である。

 ・したがって、それは教師が一方的に子供たちに教え込む指導とは
質的に異なるものであると考え、指導を工夫することが大切である。


◇1980年代に荒れ狂った学校での教師と子どもたちの対立構造を
解消しようと、子どもの「意欲・関心・態度」を重視していこう、
主体性を育てていこう、そのための支援を教師がしていこうという
改革をしたのです。文言は非常に綺麗で何も文句をつけるところがない
ように思うのですが、2つの点でその後に大きな問題を残したと私は
思っています。


◇1つ目は、子どもたちの内面(意欲・関心・態度)にかかわることを
評価の中心に据えたことです。「意欲・関心・態度」は、何に対するもの
でしょうか。

丁寧に言えば、学ぶ意欲や学ぶための関心や学ぶ態度といったことになる
のではないでしょうか。学ぶことがまず初めに来るはずです。または、
学びたいと思うための「種子=エネルギー=きっけか」が必要でしょう。
それが、ある程度知っているということではないでしょうか。

それを後回しにして、「意欲・関心・態度」という内面的な部分を評価の
中心にしてしまったのです。本末転倒も甚だしいものです。教える行為が
まずあって、その次に子どもたちが学びたいという意欲が生まれるのです。
何も知らないところからは、学ぶ意欲は出てきません。中身のない空っぽ
な学びがそこから生まれてしまうのです。


◇また、評価の基準に内面化されたものが、使われることによって、
子どもたちが自主的にその評価基準に沿った行動が出来るようになる
ことも大きな問題です。良い成績を取りたければ、テストの結果だけ
ではなく、日頃の行動も教師の望むようなものでなければならないと
いう暗黙の了解が生まれることになります。高圧的な指導をしなくても、
子どもたちは、自主的に従うだろうということです。

しかし、現実はそう簡単ではありませんでした。この規律の内面化は、
次の問題と併せて、子どもたちの二極化を生むことになります。物言わぬ
不気味な子どもたちと学校からドロップアウトしてしまう子どもたちとに。


◇それに関連して、二つ目は、教師が、子どもたちの指導者から支援者に
変わってしまったということです。この垂直関係から水平関係に何の準備も
なく進んでしまったことが、大きな問題なのです。

子どもたちは、指導をされない存在になってしまったのです。教育は、
ある種の強制力を必要とするものです。それが、指導性ということですが、
子どもたちに何かを教える行為は、非常に重要な公共性や社会性を獲得
する行為です。ルールを教える、物事の原理を教える、事実を教える、
そういう行為を教師がしない限り、子どもたちの公共性や社会性は育ち
ません。学級崩壊という言葉もこの頃から世間に出てきました。


◇子どもたちの学びだけを尊重していけば、学ぶ対象を自由に見つけられる
子どもとそうではない子どもに二極化します。学校の成功不成功の要素で
ある、家庭環境=経済環境=文化環境の優位な子どもが、自由な学びの中
では勝っていくわけです。

ですから、先ほど、「意欲・関心・態度」を上手く利用した子どもは、
学びが上手くいかなくてもある程度成功をするし、そんな嘘っぱちは
できないと思った子どもや、全く何をやって良いかわからないという
子どもは、すぐに学校からドロップアウトしてしまうことになるのです。

ここに、日本の学習状況が混乱してしまった要因があると私は思います。



転載は以上です。

郡上八幡で学習塾を20年近くやってきましたが、この間に子供たちの変化、保護者の方々の学習に対する意識の変化をつぶさに見てきました。今回、この文章はまさに正鵠を射た分析だと思いました。

「何も知らないところからは、学ぶ意欲は出てきません。」

「子どもたちの学びだけを尊重していけば、学ぶ対象を自由に見つけられる
子どもとそうではない子どもに二極化します。」

など、日頃考えていたことがズバリ指摘されていました。

塾ではどの子にも基礎を徹底して学習させます。するとその継続の中で、学ぶこと自体が面白いという、本来の自主的に学ぶ姿勢が芽生えてくるのです。

中1くらいの生徒がよく発する「なぜ勉強しなければならないか」という質問に対しては

「その質問をすること自体が、勉強しなけれなならない理由だ」と答えます。


百人一首の権中納言敦忠の歌に

「逢い見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」

というのがあります。

これは恋の歌ですが、学びにおいても同じなのです。